本月手寫週記我們邀請到出生於臺南的藝術家陳威廷撰寫,近年來他居於日本創作,作品在國際間廣泛展出,接下來兩個月也將在高雄市立美術館展出精選十年的創作,展覽主題【彼岸】以詩文敘事,並建構虛擬角色作為引路者,探討東方哲思的生命議題。
我們將從11月手寫週記,一同感受他的眼光以及獨具詩意的臺日生活經驗。
序文
・移動 / 位移
・雜訊 / 介入 / 偶發
・兩者 / 對比 / 反而重要的
・所謂「物件」 / 物哀的翻轉
/ 就養一隻狗豢養自己也豢養靈魂
他可能更喜歡看電視
但卻從容跟隨
一杯純度適當的印度尼西亞咖啡。
序文
・移動 / 位移
・雑音 / 介入 / 偶然
・両者 / 対比 / 実は重要なもの
・いわゆる「物件」 / 物哀の逆転
/ 犬を飼うことは、自分自身と魂を養うことでもある。
その犬はテレビを見るのが好きかもしれないが、
静かに付き従い、
適度な純度のインドネシアコーヒーとともに。
第一周 位移
「從夢中喚醒現實何嘗不就是位移?記得小林孝亘繪畫枕頭時,曾提及睡眠如同死亡,枕頭不就是一個媒介,人生如寄。一夢(覺)不醒亦或重獲新生?思索半刻,日復一日,車水馬龍,潮起潮落,月圓盈缺,此起彼落。人或者就是在不停旋轉,交錯如群蟻。該好好計較距離,細算差異,還是到頭來不就誰先睡著,相遇一個人的機率,相鄰而席,而飲而一起躁動,群舞的跳蚤。每次的移動總在得失,我們責怪時間從指縫溜走,青春的臉在霧中,依稀成為另一張泛黃的照片。我們會晚點抵達,還是提早會合?」
這陣子整理作品,翻閱畫冊,總能感受到時間的重量,我以「位移」作為開端,相信所有事物都是即逝,不恆定,像偶陣雨,靜靜地發生,像「千禧曼波」中的詛咒,雪人也幻想著看一場日出。我想好好接住墜落的人,給予一朵盛開的花。
移動
「夢から現実へ目覚めることは、移動ではないだろうか?小林孝亘が枕を描いたとき、睡眠は死に似ていると語り、枕は一種の媒介であり、人生は仮の宿だと言っていたのを思い出す。目覚める夢は再生なのか、それとも永遠の眠りか?少し考えてみると、日々、車が行き交い、潮が満ち引きし、月が満ち欠けするように、人は絶えず回転し続けている。群衆は蟻のように交錯し、距離を測り、差異を計算するべきか、それとも結局誰が先に眠りにつくかが大切なのか?誰かとの出会いは、隣り合って座り、共に飲み、騒ぎ、まるで群舞するノミのように。移動するたびに何かを得て何かを失う。時間を指の間から逃してしまったことを責め、若い頃の顔が霧の中でぼんやりと黄ばんだ写真になっていくのを見つめる。遅れて到着するのか、それとも早く合流するのか?」
最近、作品を整理しながら画集をめくるたびに、時間の重みを感じます。「位移」をテーマに始めましたが、すべてのものは刹那的で、永遠には続かないと信じています。偶然の雨のように静かに起こり、映画『ミレニアム・マンボ』の呪いのように、あるいは日の出を夢見る雪だるまのように。落ちていく人々をしっかりと受け止め、一輪の咲いた花を捧げたいと思います。
第二周 雜訊
選了幾個字眼陳述,這些字沒有指向,窄如狹巷,寬若大院。雜訊是這次選擇的起點。關於介入、插隊、偶發。不可控的流浪動物,離群索居卻獨當一面。前幾天畫圖時腦海跑出一段話。繪畫行為其實就是一次冒險,我喜歡不自覺調整繪畫,沒有冒險的作品,就只是虛應故事。雖然我也認不清意識有無,但總想,在畫面保留雜訊。為了干擾,為了暗示,為了不對稱,為了存有秘密。大多人把雜訊視為干涉,我卻認知為一種轉調,類似 Amy Winehouse 每次唱的狀態都產生新的即興,會不會化客為賓?成為英雄也不一定要主人翁,一顆檸檬拯救了疲憊的靈肉。
雑音
いくつかの言葉を選んでみたが、これらの言葉には方向性がない。狭い路地のように狭く、大きな屋敷のように広い。雑音は今回の選択の出発点だ。介入や割り込み、偶然について。コントロールできない野良動物たち、群れから離れていても一人前にやっていく。先日絵を描いているとき、ある言葉が頭に浮かんだ。絵を描く行為は冒険そのものだと思う。無意識に絵を調整するのが好きで、冒険のない作品はただの物語に過ぎない。意識があるかどうかはわからないが、私は画面に雑音を残したいと思っている。干渉するため、示唆するため、非対称にするため、秘密を隠すために。多くの人は雑音を邪魔なものとみなすが、私はそれを転調と考える。エイミー・ワインハウスのように、彼女が歌うたびに新しい即興が生まれるように。客が主人になるかもしれない。ヒーローは主人公でなくてもいい。レモン一つで疲れた心と体が救われることもある。
第三周 兩者的事
前幾天在母親的書架上看到一本村上春樹的《棄貓》(關於父親,我想說的事)。其中,「我們只是朝向廣袤的大地降下的龐大數量的雨滴的無名的一滴而已。⋯⋯就算那會在什麼地方被瞬間吸收,失去身為個體的輪廓,轉換成某種集合消失而去。」我腦海中出現若干星宇,各式星球旋轉自轉,甚至碰撞,以一種不可衡量的速度。人與人的相遇是否也是一如雨水,可能與地面碰觸時就已然殆盡?愛情的死亡也不過一場旅行,各自告別,成為另一個人群。我也看到一則影片關於芝麻街裡的布偶 Elmo 與一位喪母的藝人同聊 ”悲傷“ ,「你愛過他,因此你能感受到悲傷。你哭泣⋯⋯但也別忘了這或許是老天給你的一份禮物。」
這陣子這些「轉化」、「兩者」的內容時不我予,偶發自然,我甚至想過明天世界沒了,我們最想跟誰擁抱,一起默默注視,像是世界毀滅那一晚,那道忽明忽暗的光,一如盛夏花火的一瞬,旋即美好旋即無聲。我會記得黃昏時顏色漸變的天空,我們穩穩睡著,枕頭的軟,還有一聲謝幕的掌聲。人勢必得適應各式兩者,還有還有⋯⋯。
両者のこと
母の本棚で村上春樹の『猫を棄てる』(父親について語るとき)を見つけた。そこに「 我々は、広大な大地に向けて降り注ぐ膨大な数の雨粒の中の、名もなき一滴に過ぎない。…たとえその一滴がどこかで簡単に吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに変わって消えていくとしても。」とあった。私は無数の星や、様々な惑星が回転し、衝突する様子を思い浮かべた。人との出会いも雨水のように、一瞬で地面に触れて消えてしまうのだろうか?愛が終わることも旅に過ぎず、それぞれが別れを告げ、別の群れの一部になるだけではないだろうか。芝居の中でセサミストリートのエルモが、母を亡くしたアーティストと一緒に悲しみを語る映像も見た。「君は彼を愛していたからこそ、悲しみを感じるんだ。涙を流す…でも、もしかしたらそれは神様がくれた贈り物かもしれない。」
最近、この「転化」や「両者」のテーマが頭を離れない。世界が明日終わるとしたら、誰と抱きしめ合いたいか、一緒に黙って見つめ合いたいかと考えてしまう。まるで世界が滅びる夜、閃光のような光を眺めるように、夏の花火のように儚く美しく、すぐに無音になる。夕焼けの空が色を変えていくのを思い出しながら、私たちは穏やかに眠りにつき、枕の柔らかさを感じ、終幕の拍手を聞くのだろう。人はきっと様々な両者に適応し続けなければならないのだろう、そして、そして…。
圖文提供|陳威廷
出生台南,畢業於東京藝術大學國際藝術實踐碩士課程。童年時期充滿繪本的陪伴,熱衷於在紙張上構築屬於自己的詩意世界。對我來說,書寫是生活片段的捕捉,而詩則成為了另一種形式的繪畫表現。
展覽資訊|高雄市立美術館 陳威廷個展《彼岸 Paramita 》
高雄市立美術館個展「彼岸(Paramita)」是陳威廷睽違三年後首次在台灣的大型展出,匯集近十年的創作歷程,不僅反映他在藝術創作上的不斷演進,也體現他從台灣到日本的生活經驗與文化衝擊,藉由詩意的視覺敘事引領觀者一同踏上通往「彼岸」的旅程。
展覽日期:2024年11月9日(六)至12月29日(日)
展覽地點:高雄市立美術館 B1 Kspace(高雄市鼓山區美術館路80號)
開放時間:週二至週日,上午9:30至下午5:30(週一休館)