汪怡
20世紀中国の国語運動家、速記考案者
汪 怡(おう い、1877年?[1] - 1960年)は、中国の国語運動家。中国の標準語である国語の確立のために努力し、また中国語用の速記を考案、普及させた人物として知られる。
人物情報 | |
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生誕 |
1877年??月??日 浙江省杭州 |
死没 |
1960年1月1日 (83歳没) 中華民国(台湾) 台北市 |
出身校 | 両湖書院 |
学問 | |
研究分野 | 言語学 |
研究機関 | 北京師範大学 |
汪 怡 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 汪 怡 |
簡体字: | 汪 怡 |
拼音: | Wāng Yí |
和名表記: | おう い |
発音転記: | ワン・イー |
生涯
編集汪怡は浙江省杭州の人で、字は一庵といった。張之洞の創立した湖北省の両湖書院に学び、中学の英文教師や遼寧省営口の商業学校の監督(校長)をつとめた[2][3][4]。
- 辛亥革命以降
辛亥革命以後は北京で『新中国報』の編集にたずさわり、その後北京師範大学と北京師範学校の講師をつとめた。同時に読音統一会や国語統一籌備会に参加し、また国語統一会の常務委員だった[2]。
早くから速記に興味を持ち、中国の初期の速記術や、英語のピットマン式の速記を学んだ。日本の熊崎健一郎『速記術独習』の附録「支那速記術」にも刺激された。1919年に中国語の新しい速記方式である『中国新式速記術』を出版した。その後何度も改訂し、1928年に『中華国語最新速記術』、1931年に『汪怡国語速記学』、1936年に『汪怡簡式速記学』を出版している[5][6]。
1920年から国語統一籌備会の国語講習所で国語の音声を教えた。そのときの講義をもとにして、1924年に教科書『新著国語発音学』を商務印書館から出版した。この書物は11章からなるが、当時の国語はまだ北京音を元にしていない人工的な音であり、後の国語とは異なるものだった[7][3]。
1925年、汪怡は劉復ら「数人会」のメンバーとして国語ローマ字の制定に参加した[3][8][9]。『教育部国語辞典』の主編でもあった[10][4]。
- 台湾へ
1947年以降台湾に住んだ[2][4]。1951年、汪怡はすでに74歳に達していたが、改良された『汪怡速記学』を出版[11]。1960年に台北で病没した[4]。
参考文献
編集- 李明「汪怡」『中国現代語言学家』 3巻、河北人民出版社、1984年、124-130頁。
脚注
編集- ^ WorldCat他による。1878年とするものもある。李明(1984)は「約1875年」とする。
- ^ a b c 李明(1984) p.124
- ^ a b c 『汪怡』華人百科 。
- ^ a b c d 『汪怡速記你知道嗎?』長大速記公司、2012年12月10日 。
- ^ 李明(1984) pp.128-129
- ^ 『汪怡的五種速記方案』長大速記公司、2012年12月10日 。
- ^ 李明(1984) pp.125-127
- ^ 李明(1984) p.127
- ^ 倉石武四郎『漢字の運命』岩波新書、1966年(原著1952年)、97-100頁。
- ^ 李明(1984) pp.127-128
- ^ 『1949年後的台湾速記』長大速記公司、2013年3月31日 。